不思議の国の。


着地には、郁の山猿といわんばかりのその運動神経で無事にできた。

お尻に衝撃があり、底に着いたと分かったが、何せ、下がトランポリンのように弾むため、なかなか止まれない。この、底らしきものからは、なんだかおいしそうな香りが漂ってきている。
辺りを見渡すと、底らしきものの奥のほうで底らしきものが途切れていたので、そこまで弾み ながら移動し、底らしきものの端からそのまま落ちた。
郁は高さなど考えもしていなかったので、地面までの空中にある自分の足の位置が高かったことに一瞬目を剥いたが、実家のほうで木の梢から飛び降りたこともある郁である。
この程度の高さ・・・3mほどの高さだが、郁は物怖じもせず、見事に着地を決めた。
地に足が着くってこういうことかな、と独りごちる余裕まであった。
途中まで、走りながらあんなに「急げ」を連呼し、一緒に穴に落ちた手塚はいつの間にかいなくなっていた。
いつからいなかったのかは思い出せない。もしかしたら、穴に落ちた時点で一人だったかもしれない。
さて、と振り向くと、郁が弾んでいたものは、それはそれは大きなホットケーキだった。
「キャア!」と郁は喜びをあらわにした声を出し、ホットケーキが4枚重なって大きな壁となっている場所へ駆け寄った。
その壁に鼻を近づけてみる。やはりホットケーキだ。
「た、食べてもいいかな…」
ごくり、と音を立てて唾を飲み込んだ。
おそるおそると手を伸ばす。
指に力を込めてぐわしと動かすと、ふつうのホットケーキとなんら変わらぬ柔らかさで、その塊を掴み取れた。
試しに一口。
こういうことに躊躇のない郁は、迷いもせず、その塊のひとつまみを口にした。
「おいしーい!」

思わず頬に手を当てた。
柔らかくて、ほんのり甘い。
自分ではなかなか料理のできない郁は、ホットケーキさえ人並みに作れないため、久しぶりの素朴な味に出会えて、顔を綻ばせた。
そんなわけで、手の中の塊はあっという間になくなった。
すると、視界が、急に上昇していく。
え? と思って、きょろきょろと周りを見てる間に、ホットケーキよりもずいぶんと大きくなって、その上昇は止んだ。
「大きくなってる!?」
郁は目を見開きながらと声を上げた。
おろおろする郁は、自分がテーブルの上に座っているのだと気づいた。
どうやら、広い庭にあるテーブルセットのテーブルの上に座っていたようだ。
慌ててテーブルから身を下ろすと、稲嶺が視界に入った。
「稲嶺司令!」
思わず目を瞠った。
「なんでこんなところに…!」
あ、と口を両手で覆った。そして「いらっしゃるのですか」と付け足した。
無意識のうちに伸ばしていた背筋を曲げて、郁は稲嶺に頭を下げた。
「す、すみません! 私、なんて失礼なことを!」
「いえいえ、構いませんよ。笠原さん、でしたかな」
「はい!」
笑顔でぱっと顔を上げる。
笑みをこぼしながら、稲嶺は言った。
「あなたとはいつも、思わぬ形で会いますね」
それは、郁が稲嶺のことをおじさんと呼んだことか、一緒に良化委員会の賛同団体の麦秋会に拉致されたことか。もしくは、どちらもか。
郁はもう一度、すみませんと頭を下げた。
「笠原さんは、今日は何の御用事ですかな?」
「あの、その・・・穴に落ちてしまいまして」
「穴、ですか」
稲嶺は特別驚いたふうもなく答えた。
「はい。図書基地の廊下の真ん中に穴があったんです」
「ほう」
「それで、えと、このホットケーキの上に落ちまして…」
郁は自分の背に隠れているホットケーキが見えるように少し横にずれて、それを指差した。
「それでその…」
少し俯いて、もごもご言ったあと、ええい! 言ってしまえ! と一気にまくし立てた。
「とてもいい匂いがして美味しそうでしたので、ホットケーキ、少し食べてしまいました!」
「おいしかったですか?」
「へ?」
まさか稲嶺が怒鳴ると思ってはいなかったが、こういった質問がくることも予想外だった。
郁は虚を突かれて、間抜けな声を出してしまった。
「はい! もちろんです。美味しかったです」
郁はにこっと笑った。
「それは良かったです」
稲嶺は満足そうに笑った。
「それであの、私、このホットケーキを食べたら大きくなったんですけど…」
「ええ、そうでしょうとも」
「へ?」
郁はまた間の抜けた声を出してしまった。
「どういうことですか?」
「このホットケーキのは、片方を食べると大きくなり、もう片方を食べると小さくなるのですよ」
わあ、それってあれですか。不思議の国のアリスのイモムシが出す難題ってやつですか。
「笠原さんは、どれくらいの大きさになりたいのですかな?」
「稲嶺司令と同じくらいの縮尺になれたと思うので、大丈夫です。ホットケーキ美味しかったです、ありがとうございました」
もう一度頭を下げて、郁は庭を後にした。
庭から少し離れたところに、小さな小道があったので、それに乗って歩いていくことにした。



少しひらけた、小さな広場に出た。道は、いくつかに分かれているようだ。
広場の真ん中に標識があった。せいぜい1行の文字を書くのが精一杯な太さの長い木の板ばかりたちが1本の樹に張りつき、それぞれ名称を抱えて、招くべき道へと、まっすぐ指し示している。
看板にある行き先は上から順番に、一月の新年会、二月の誕生会、三月のお茶会、四月の演奏会、五月の運動会、六月の食事会とあった。
六月の食事会が、郁の来たところだろう。まっすぐに郁の方を指している。
「う〜ん、どこにいくべきかな・・・?」
唸りながら、首を上下左右に動かしていると、標識が張りついている樹の上から、声がした。
「悩んでいるのね」
見上げると、樹の上のほうで、方々に散らして生えたうちの一本の枝に、柴崎が座っていた。
「そうなの。どこに行けばいいのか分からなくて」
「あんたの行きたいところへ行けばいいわ」
「それは…そうかもしれないけど」
「そもそも直球勝負しかできないあんたが、こういうことで悩むなんておかしいわ。直感でいきなさいよ、直感で」
「なんか、あんまりフォローしてもらってる気がしないんだけど」
「フォローなんかしてないもの」
にこっ、と口角を上げた柴崎に、郁はぷうっと大きく頬を膨らませたが、柴崎というのはこういう女だ。今さら何も言うまい。
「よし、んじゃあ、ど真ん中。三月のお茶会にしよう!」
「…真ん中って、四月もそうじゃない?」
「うん。でも演奏会って、なんだか眠くなりそうなんだもん」
そう答えると、柴崎は吹き出した。
ふふふっと声を上げて笑う姿も、美人な人間はなかなか様になるようだ。
柴崎が自分で、「様になる」ように笑いを抑えているせいでもあるのだが。
柴崎は笑い声を引っ込めて、郁を見下ろした。
「私、そういうあんたが好きよ」
「そういう私ってどういう私よっ」
褒められているような気がしないので、そう返すと、
「ふふ、そういうあんたよ」
それだけ残して柴崎は、少しずつ闇の中に体を同化して、消えた。
「うーん、まさに猫みたいなやつだわ」
感嘆の声で郁は唸った。







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