不思議の国の。


こうして、証人の証言の段階になって、郁は被告人の席から証人席へ移った。
その間、傍聴席の人たちがひそひそと話している。
これじゃ、弁護人つけないで自己弁護しているのと同じじゃない、郁は心の中で呟いた。
「証人、証言を」
「はい」
裁判官を向き合う位置にある証人の席に立って顔を上げた郁は、言葉を失った。
女王の顔が見えたのだ。
それは、
「クマだ!」
思いっきり目を見開いて郁は、日頃鍛えている腹筋で、力の限り大声で叫んだ。
クマの女王は、着ていた黒いドレスとローブを剥ぎ取ると、裁判官席からのそっと飛び降りて、こちらに向かって、クマらしい野生の走り方で走ってきた。
「ギャ―――――――――ッ!」
郁は背の方向にある扉の方をくるりと回って向くと、陸上部で鍛えた足を盛大に振るった。
が、相手はクマだ。人より無駄に早い。
「やめて食べないでぇ―――――!」
一度、自分の腕にかかった息で、クマが近くにいることが分かる。
こうなったら! 郁は振り返り様にクマの鼻面を思いっきり殴った。意外に軽い感触だった。
どことなく、覚えのある感覚だったが、今はその引っかかりにかまっている暇はない。
郁の拳でクマが怯んだ隙を見て、また走り出す。

郁が扉の目の前まで来た瞬間、扉が開いて手が伸ばされた。
逆光で、顔は見えない。それでも。
知っている。この人―――――
「・・・さ原、大丈夫か」
「王子様…」
「お前っ、夢の中でも王子様云々か!」
郁を起こすために肩を揺すっていた手が、そのまま郁の頭をはたいた。
堂上は恐い顔で、少し焦ったような怒ったような声を上げていた。
郁は、まだ寝ぼけ眼の目を擦った。
「あれ、堂上教官?」
郁は、自分のデスクの横に立っている堂上を見上げた。
「…ここ…?」
辺りを窺うと、小牧が堂上の後ろに立って、くつくつと笑っており、隣には、自身のデスクから仏頂面でこちらを見ている手塚がいた。
「…ここはお前の寮の部屋でもなんでもない。図書特殊部隊の事務室だ。お前、事務室で居眠りなんかしやがって。相当うなされてたぞ」
堂上が呆れたように言った。
そっか、夢―――。
郁が俯いたので、堂上が怪訝な顔になった。おい、と郁の肩を揺すると、郁は涙で潤んだ瞳で堂上を見上げた。
「堂上教官―――――ッ!」
ぽろぽろぽろと雫を瞳から次々に溢れさせる郁に、堂上がぎょっとして目を見開いた。
「…どうした」
「夢、夢が怖かったんですぅー」
しゃくり声を上げながら郁は答えた。
「はァ? 王子様の出てくる夢が怖かったのか?」
今になって、寝起きに「王子様」と呟いてしまったのが恥ずかしくなったが、涙は止まってくれない。
「違いますぅー。王子様は王子様ですぅー!」
郁はそれだけ言うと、堂上が差し出してくれたティッシュボックスを受け取って抱え、最初にまとめて掴んだ3、4枚のティッシュで鼻をかんだ後、黙って涙を止めることに専念した。

涙をなんとか収めると、柴崎が事務室にやってきていた。
あたたかい紅茶をマグカップに注いで、郁の前に置いてくれる。
「さて、夢の話聞かせてもらいましょーか」
どうやらこの紅茶は、夢の話をする対価らしい。
郁は、夢の話を思い出せる限り、伝えられる限り懸命に話して聞かせた。
毬江が良化隊員に連れて行かれるところで少し眉根を寄せたように見えた小牧だったが、郁の話が終わる頃、小牧は「クマの女王」で、ついに上戸に入った。
「なんで俺、そんな変な役なんだ」
手塚が不満そうに郁に突っ込んだ。
「知らないわよ、夢だもの」
「私がチェシャ猫ねぇー」
「うん。私、柴崎のこと前に、不思議の国のアリスに出てくるチェシャ猫みたいって思ったことがあったから、そのせいかも」
「笠原、あんた私のことそんなふうに思ってたのね」
「だってそうじゃない。時々よく分からないような表情で笑うんだもの」
「まあ、迷える山猿をわざわざ優しく導いてあげる謎の存在っていうのも素敵よね」
柴崎は、郁の思うところの「チェシャ猫みたい」な笑顔で笑った。
「夢の中でさえ「クマ殺し」なんだな、お前」
手塚が思い出したように、何の気なしにそのネタを降らせた。
「やめてよ! 恥ずかしいんだから!」
「堂上は夢でクマと遭遇したことなかったの?」
小牧が笑いの混じった声音で尋ねた。

「そんなのあるわけないだろう! 俺はこいつほどバカじゃない。夢の中だろうと、二度と同じ轍は踏まん!」
「バカとはなんですか!?」
なにやら郁を蔑みながら反駁する堂上を見て郁は、ああ、夢の中でも「クマ殺し」になっちゃったんだな、と思ったが、それと自分をバカに呼ばわりすることは別である。
いつものように、郁は大声で反論する。
「本当のことだろう、夢の中でさえも「クマ殺し」の名を授かるなんてな」
「元はといえば堂上教官のせいじゃないですか! 堂上教官が最初のときに「クマ殺し」をしなければ…!」
堂上の不機嫌な顔色がより一層濃くなった。そこへ、
「はいはい、クマ殺しのご両人。静粛に」
笑いながら小牧が二人を止めた。堂上も郁も、その単語には弱い。
二人とも不満そうにしつつも黙り込んだ。
そして郁の方は、堂上に話題が振られたことでディスカバーしたことがある。
「…そういえば堂上教官だけ出てこなかったんですよねー」
郁は小首を傾げながら話を切り替えた。
「あらァ、そうだったの?」
含んだような笑みを浮かべて、柴崎は聞いてきた。
「うん。だって最後に助けてくれたのも王子様だったし」
今、堂上の肩がびくっと反応した…ように見えた。
小牧は、せっかく上戸が止まったというのに、またくすくす笑っていた。
「…堂上教官、すみません。夢に出してあげられなくって」
なんとなく謝らなければいけないような気がして、郁は堂上に謝辞を述べた。
「俺は別にお前の夢に出てきたいとは思っとらん。謝ることでもなんでもないだろ」
「とか言いつつ怒ってるんじゃないですか!」
「それは、お前が事務室で居眠りなんかしていたからだ!」
堂上は怒鳴った。
「そ、それはすみません」
郁は肩を縮込ませて俯いたが、すぐに顔を上げて、でも、と付け加えた。
「私、堂上教官に、私の夢に出てきて欲しかったです。裁判の時、堂上教官に出てきて欲しかったです」
そして、王子様みたいに私を助けて欲しかった、は言えずに飲み込んだ。
郁がそう小さく反駁すると、堂上は「勝手に出していればいいだろ」と吐き捨てて、自分のデスクに着いてしまった。
書類でわざと顔を見えないようにしているのか、顔色が分からない。
小牧はまた吹き出して笑っていた。
「あんたって子は、やっぱりおもしろい子ね…」と柴崎が小さく呟くのが聞こえたが、なんのことかよく分からない。柴崎に聞いてみても、「自分の過失は自分で考えなさい」と返され、成す術を失くしてしまった。

なんだか、自然だったんだよね。
郁は内心でそう思った。
あのとき、扉の向こうから手を伸ばしてくれたのは王子様だったけど、目が覚めて、景色がそのまま堂上教官になってしまっも、あまり違和感なかったんだよねー。なんでかしら?
その質問に答えてくれる人はいなかった。郁が誰にも聞かなかったからだ。
たとえ聞いても、答えを知る者は誰も教えてはくれなかっただろうが。







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